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遥か時代が下って発明された俳文のようなスタイルならばいざ知らず、万葉集においては短い説明が和歌の前後に付加されるにとどまっている。しかも左註(歌の後ろに付加されたもの)については成立後写本の過程で追記されたものもあると言われている。

だが「おきなががわ」の歌のように和歌の下に「古新未詳」などとコメントされている例は少ない。

その目を惹くコメントの形式からひとつの疑問が沸いてくる。他に同じコメントのある歌は、万葉集にあるのかということだ。

結果からいうと「古新未詳」という言葉は「おきなががわ」の歌にだけつけられているが、似た言葉が題詞(歌の前に書かれたもの)や左註につけられた例はある。歌の下につけられた例も、数限られるがある。第三巻に一首(単に「未詳」とつけられている)、十九巻に一首(「作(者)未詳」)、そして二十巻が一番多く、「おきなががわ」の歌を含めて四首。

(第三巻)

高市連黒人覊旅八首

磯前 榜手廻行者 近江海 八十之湊尓 鵠佐波二鳴 未詳
(いそのさき こぎたみゆけば あふみのうみ やそのみなとに たづさはになく)

(第十九巻)

閏三月於衛門督大伴古慈悲宿禰家餞之入唐副使同胡麻呂宿禰等歌二首

梳毛見自 屋中毛波可自 久左麻久良 多婢由久伎美乎 伊波布等毛比 作未詳
(くしもみじ やぬちもはかじ くさまくら たびゆくきみを いはふともひて)

右件歌傳誦大伴宿禰村上同清継等是也
(このうたを伝えたのは、大伴村上と大伴清継である)

(第二十巻)

六年正月四日氏人等賀集于少納言大伴宿禰家持之宅宴飲歌三首

霜上尓 安良礼多婆之里 伊夜麻之尓 安礼波麻為許牟 年緒奈我久 古今未詳
(しものうえに あられたばしり いやましに あれはまゐこむ としのをながく)

右一首左兵衛督大伴宿禰千室

六年正月四日氏人等賀集于少納言大伴宿禰家持之宅宴飲歌三首

年月波 安良多々々々尓 安比美礼騰 安我毛布伎美波 安伎太良奴可母 古今未詳
(としつきは あらたあらたに あひみれど あがもふきみは あきだらぬかも)

右一首民部少丞大伴宿禰村上

爾保杼里乃 於吉奈我河波半 多延奴等母伎 美爾可多良武 巳等都奇米也母 古新未詳
(にほどりの おきなががわは たえぬとも きみにかたらむ ことつきめやも)

右一首主人散位寮散位馬史国人

可之故伎也 安米乃美加度乎 可氣都礼婆 禰能未之奈加由 安佐欲比尓之弖 作者未詳
(かしこきや あめのみかどを かけつれば ねのみしなかゆ あさよひにして)

右件四首傳讀兵部大丞大原今城

先にも述べたように題詞や左註に「未詳」と付記されている例はもっとあるのだが、歌の下に付記しているのは十九巻、二十巻に集中している。大伴家持が編集したとされる部分である。

後に写本に携わったひとが加筆するとしたら、題詞や左註ならば書き付けるかもしれないが、歌の下に書き付けるとしたらやはり編者である家持本人がその歌を採録した状況を記録したのではないかという気がするのだがいかがだろうか。

この疑問について「古新未詳」がついていない万葉集の写本はないのか、ということが気になるが実は、ある。

まず「万葉集」の原本は現存していない。今年(二〇〇八年)紫香楽宮跡から万葉集の収められた歌を記した木簡が発見され、万葉集二十巻成立前の姿として注目を集めており、これなど原本の部分であった可能性もなくはないわけだが、一巻分以上が残っているものは写本以外になく、新しい資料も長い間発見されていない。

現在出版されて、我々が読める万葉集は鎌倉中期、仙覚というひとがまとめた写本を基礎としている。京都の西本願寺が所有していた写本をもとにしているので「西本願寺本」と呼ばれるものである。現時点で全二十巻網羅している最古の写本である。

万葉集の写本は、部分しか残されていないものも含めて多数あるのだが、その中に「春日本」と呼ばれるものがある。この写本には「古新未詳」の付記がないとの指摘は、三津井康純氏と梅本雄三氏の共著『万葉集と源氏物語をつなぐ息長川(今川)』で知った。木下正俊氏『万葉集全注 巻二十』二七七ページにて言及されてれている。

春日本というのは春日大社の神職や興福寺の僧が書いた懐紙に写本が残っていたことから名づけられている。「ふところがみ」と読んでしまうとティッシュペーパーを想像してしまうが「かいし」と読む。自作の和歌を決まった書式で清書したもののことを言う。茶道では干菓子の皿代わりにつかい、箸をぬぐって懐にしまうのが「懐紙」だが、春日本(春日懐紙)は茶道が武野紹鴎や千利休によって確立されるより前の鎌倉時代中期に書かれたものだから懐紙が貴族によってもっと様々な用途に使われていた時代のものといえる。

作者として春日大社の神職、特に中臣祐基などの名が知られているが、懐紙の表には彼らの和歌が清書されている。そしてその裏に万葉集の歌が残っているものがある。最初は平安期の万葉集の写本であったものをほどいて、裏に自分の和歌を書き懐紙としたらしい。一種の風雅だろうか。襖紙の裏から古文書がみつかるようなもので、すなわち写本というよりは前述の木簡と同様に残簡と呼ぶほうが的確な表現かもしれない。それでもそれなりにまとまった部分が残っているため「春日本」として写本のひとつに加えられている。

そのような残り方であるので上記注付きの歌が全ては残っていないのかもしれないが、少なくとも「おきなががわ」の歌は残っていたらしい。ただこれをもってやはり注は万葉集成立後に追記されたものだ、という判断にははやいようである。三津井氏・梅本氏も「四字書き入れの時期については写本レベルからでは確定できない」とされている。

話が逸れた。

我々の興味は「古新未詳」のコメントが息長川の出自判断に影響するのかどうか、ということだ。

従来の通説である近江天野川の説は「古新未詳」を編者が書いたにせよ後に書き写したひとが追記したにせよ難波の地で近江の川の歌が詠まれるのはおかしいからそうコメントしたのだろう、という推測におおきくはまとめることができる。従ってコメントがつけられた時点ので「おきなががわ」といえば近江の川だったであろう、という考えが推測の背景にある。

今川説の三津井氏については、一番最近に発表された梅本雄三氏との共著『万葉集と源氏物語をつなぐ息長川(今川)』をひいてみたい。

「一-一.贈答歌の三つの特性(歌作の同時性、同一場所および情景の類似)について」と「一-二.なぜ、四四五八に「古新未詳」の小註が付記されたか」という二点で論じてある。

前の「一-一」の章で

「古新未詳」を根拠として、国人が「既成の古歌を引用した」と
する説では、「歌作の同時性」が備わらないので、「古新未詳」は
筆録者(後に写本したひとを指す。椋注)の追記だと考えています。

そして小註付記の理由について

平安初期の大洪水のために、息長川の水源(馬池谷筋)が大幅に減
衰し(『平野区誌』平成十七年五月、五六頁)、その名前が忘れら
れたからだと思います

とされている。

実は上記文章を繰り返し読んでいて、私は段々憂鬱になってしまった。というのは三津井氏と梅本氏の論述はひとつのドグマのように提示された考えのうえに構築されている。それは「息長川を詠んだ馬国人の歌と、ひとつ前の大伴家持の歌は相聞歌の関係にあり、相聞歌は歌作の同一時と同一場所および情景の類似という要素を含んでいなければならない」というものだ。

相聞歌の特性については田中卓氏の説としてだけ紹介され、その正当性についてなんらの精査が行われていない。仮に相聞歌についての田中氏の説に正当性があるとしても、息長川の歌は相聞歌ではない。

田中氏は伊勢にある皇學館大学名誉教授で日本古代史の研究者であり、三津井と梅本氏も師と仰いでおられるようだ。いわゆる皇国史観のもと研究されている方だが、その言説を無批判に基礎にして展開している。非常にがんばって書かれており、実際的を得ているようにおもえる箇所もあるのだが、砂の上に凝った建物をたてているようである。例えば上記引用における

「古新未詳」を根拠として、国人が「既成の古歌を引用した」と
する説では、「歌作の同時性」が備わらない

という下りも「相聞歌のドグマ」に従った記述である。相聞歌でない歌について相聞歌の要件である「歌作の同時性」云々を汗をかいて述べているということになる。

そして私を憂鬱にさせた理由はその論述の危うさが主ではない。

その基礎となっている「相聞歌のドグマ」自体が私を憂鬱な気分にさせる。相聞歌の歌作同一時と同一場所という条件のために「おきなががわ」の歌は古歌ではいけなかったし、住之江と同じ方向の情景を詠んでいなければならなかったというのだが、万葉集とは有職故実に絡めとられたような(有職故実が現れるのはもうすこしあと、平安中期である)、あるいは現代のサラリーマンの飲み会のような、そんな約束事に絡めとられているものなのだろうか。そのようにしてまで「おきなががわ」は今川でなければならないのだろうか。

その割りに三首目の大伴池主の歌については

この歌宴の前日に大原真人今城が堀江で詠んだ歌を読み上げただけ
のものですので、相聞歌論から対象外と致します。

だけで片付けられている。万葉集を矮小化してまで論じておきながらあまりにも論旨に一貫性がない。

万葉集は成立過程が今もはっきりとは分かっていないが、少なくとも勅撰和歌集というような形式が出来る前に編纂された。勅撰和歌集として最初なのは醍醐天皇の勅命による古今和歌集である。正岡子規が『歌よみに与ふる書』で古今和歌集を手厳しく評価したことに象徴されるように古今集以降の貴族による和歌を中心とする選集と、あらゆる身分のひとびとの歌をひろく蒐集した万葉集とは成立過程には大きな差が内在していると考えるがいかがだろうか。

中九兵衛氏の『於吉奈我河考』でも「古新未詳」は一首だけ場所が異なるため後の写本時に書き込んだものではないか、という大井重二郎氏の『万葉集摂河泉歌枕考』の説を紹介されている。

*右三首の中、客の二首、及び之に続く「江の辺にて之を作る」
と左註のある三首(前傾)は共に、堀江を中心として住吉
(すみのえ)付近の景趣を詠んでいるにもかかわらず、主人馬史
国人の歌のみ、遠く距たった近江の息長河(おきなががわ)を
詠んだものとするのは甚だしく不合理である。

万葉集写本の編注者もこの疑問に気付いて判断したのか、この歌
の後に「古新未詳」と書き込んでいる。《歌枕考》(大井重次郎氏
の『万葉集摂河泉歌枕考』のこと。椋注)はその文言と、後にその
意味を解説している書にも異議を唱える。
(『於吉奈我河考』、第四章「於吉奈我河をさぐる」より)

中氏は「おきなががわ」は河内に流れていた川を指していて、恐らくは馬史国人邸と推測される地帯の近くを流れていた一番おおきな流れである平野川を指すのではないか、という論旨を採られているわけだが、別の箇所で気になる指摘をされている。渡来人系であるとされる馬史国人の職業についてである。

この伎人郷(くれのさと)の地に宅を構えていたのは、治水事業、
特に後に述べる伎人堤(くれひとのつつみ)の維持管理に、何らか
の役目をもたされていたからであろうか。
あるいは、その名から本来は馬飼部(うまかいべ)、すなわち朝
廷の要請で馬の飼育のために渡来した集団の子孫で、難波・大和間
に位置するこの地でも、輸送・交通の手段としての馬の利用に重要
な役割を担っていたのかもしれない。
(『於吉奈我河考』、第一章「難波行幸の途次」より)

この点について中氏にお尋ねしたところ「二次的資料ながら」と断られながら『平野区誌』のコピーを送って頂いた。

渡来系氏族の分布で興味深いのは、この地域を本拠地とする氏族
がほとんど確認できないことである。出自不明の飽田氏を除いて、
船氏、馬氏は、いずれも本拠地を他に持っている。このことが何を
意味するのかはすぐには決められないが、参考となるのは天平勝宝
元年(七四九)十月、聖武天皇が河内国大県郡の智識寺(柏原市太
平寺)に行幸した際、茨田宿禰弓束女(まんだのすくねゆつかめ)
(弓束ともいう)の宅に行幸したことがあることである(『続日本』)。
茨田氏の本拠は、本来北河内の茨田郡であるが、それがなぜ中河内
に宅を構えていたかが問題となる。
茨田郡は、淀川沿いに展開しており、その決壊がしばしば起こっ
たことは著名な事実である。その治水は切実な課題であった。『古
事記』『日本書紀』には、新羅人、あるいは秦人によって茨田が築
かれたことが見えている。
(中略)
茨田氏は、淀川における治水技術蓄積の故に、大和川の治水にも一
定の役割を果たすことが求められ、大県郡にも拠点をもつに至った
ものではなかろうか。
(『平野区誌』、原始・古代 三章「飛鳥・平安時代」より)

これを元にかなり粗い構築の想像を書くと、馬史国人は本拠を近江に持つ渡来系氏族であったと仮定する。治水の技術をかわれて河内の伎人郷に来ていた(あるいは馬氏がきたことで伎人郷と呼ばれるようになったか)。

その地に大伴家持と大伴池主が訪れて酒宴となったのだが、大伴家持の歌に対して主人である馬史国人は「私は歌などよう詠みませんが、私の地元を詠んだこのような歌がありました」と鷹揚に詠唱して見せたのかもしれない。

そこへ大伴池主が堀江を詠んだ大原真人今城の歌を持ち出して宴を盛り上げたのではないか、という想像である。歌を収録した家持は馬史国人の話を覚えていて「古新未詳」と自ら付記して万葉集に採録したのかもしれない。

万葉集二十巻は防人歌を含む。これは馬氏宅で宴が持たれたちょうど一年前、天平勝宝七年に採録されたことが題詞に書かれているが、家持が兵部少輔として防人検校(赴任前のチェックだろうか)に難波に赴いた際、防人や家族の歌を集めたのだという。家持は広く和歌を採録することに情熱があったのであり、その情熱が「防人歌」採録という輝かしい功績を生んだ。もしかしたら家持は馬氏にも「何かよい歌はございませんか」などと尋ねたのかもしれない。

ただこの想像はもととなる馬氏と近江との結びつきについては「渡来系の氏族である」ということしかない。したがって馬氏のせりふは「私の地元に」ではなくやはり「この地で誰々が詠った歌がありまして」であってもおかしくなく、息長川=平野川説でもいいともいえる。

また「馬」という姓からは中氏も言及されているように馬飼部が連想されるが、この馬飼部は日本書紀の「男大迹天皇(おおどのすめらみこと)」、継体天皇の章の冒頭で登場する。男大迹王が皇位に迎えられるようになった際河内馬飼首荒籠(こうちのうまかいのおびとあらこ)に使いを送り情報を得た旨の記述がある。そしてその後に王は河内国交野郡葛葉の宮に来られたという記述が続く。

この馬飼首荒籠の本拠も葛葉であった、という説があるのだが典拠が見えない。

ただ、葛葉の隣ともいえる山城国の南部には息長氏が存在した伝承がある。現在残っている地名では京田辺市に観音寺という寺があるが、山号を息長山という。馬氏が仮に「私の地元に」と言ったときそれが葛葉や南山城のことであったなら、南山城の川ならば木津川かもしれず、葛葉なら淀川かもしれない。

「古新未詳」から「おきなががわ」の出自を絞ろうとしたが、むしろ拡散していく。これも万葉集の一首にしか残っていない川だからむしろ致し方ないことなのかもしれない。

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息長川ノート Copyright © 2013 by Mukunoki Yasuo. All Rights Reserved.

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