4 系図

大阪に、「おきなが」とは音が異なるながら「おきなが」と濃密な関係がある土地がある。

近江の天野川がかつて「おきなががわ」と呼ばれた川であることは間違いない。河内に「おきなががわ」、あるいは「おきなが」という地名はあるのか、ということについて、中九兵衛氏は東大阪に残る「意岐部(おきべ)」という地名を挙げられたことは先に紹介した。ここでいうのはこの「意岐部」ではない。

それは「磯長谷(しながだに)」といい、現在の南河内郡太子町にある。河内の南東、二上山の山麓にひろがる谷である。行政上の地名にはなっていないが、谷には用明天皇、敏達天皇、推古天皇、孝徳天皇の陵があつまって築かれており「磯長谷古墳群」と呼び習わされている。小学校の校名にも使われており、谷(扇状地)の奥にある神社は「科長神社(しながじんじゃ)」である。

この「しなが」はしながどりの「しなが」であると思われる。しながどり、とはカイツブリの古名であると言われており、万葉集にも現れる。

[題詞]攝津作
志長鳥 居名野乎来者 有間山
夕霧立 宿者立
(しながどり ゐなのをくれば ありまやま
ゆふぎりたちぬ やどりはなくて)
…… 第七巻 雑歌より

[題詞]詠上総末珠名娘子一首[并短歌]
水長鳥 安房尓継有 梓弓
末乃珠名者 胸和之
廣吾妹 腰細之
須軽娘子之 其姿之
端正尓 如花
咲而立者 玉桙乃
道人者 己行
道者不去而 不召尓
門至奴 指並
隣之君者  預
己妻離而 不乞尓
鎰左倍奉 人皆乃
如是迷有者 容艶
縁而曽妹者 多波礼弖有家留
[左注]右件歌者高橋連蟲麻呂歌集中出

(しながどり あはにつぎたる あずさゆみ
すゑのたはなは むなわけの
ひろきわぎも こそぼその
すがるをとめの そのなりの
きらきらしきに はなのごと
ゑみてたてれば たまほこの
みちゆくひとは おのがゆく
みちはゆかずて よばなくに
かどにいたりぬ さしならぶ
となりのきみは あらかじめ
おのづまかれて こはなくに
かぎさへまつる ひとみなの
かくまとへれば たちしなひ
よりてぞいもは たはれてありける)……第九巻 雑歌より

そして、われわれのテーマである「おきなががわ」の歌に詠まれる「にほどり」もカイツブリの古名である。「にほどり」と「しながどり」、同じ鳥を指すことばがあるのには何かしらの理由がありそうではある。それを不審とし、しながどりというのは鴨や鴎など他の鳥を指すのではないかという説もあるらしい。私としては地域差、あるいは文化による呼び名の違いではないかと考えるのだが、いったんは措く。

通説として「しながどり」もカイツブリを指すといわれていることから、漢字では「息長鳥」と当てられている。あくまでも訓みは異なるながら河内の地で唯一「息長」と称される土地であるとはいえる。

また科長神社は鎌倉期に今の場所に遷座されたと言われているが、その前に当地には土祖神社が鎮座しており末社(境内の本殿とは別に小さい社が祭られる)とされたと伝えられており、この土祖神社の祭神は息長宿禰命と葛城高額媛のニ柱とされていたという。息長帯日売命、つまり神功皇后の両親、ということになる。

さて、これらの事実をもって短絡的に「この地に息長氏の拠点があった」ととらえてはいけないと考える。

磯長谷には竹内街道が通っており、竹内街道が二上山が連なる峠を越えると当麻、葛城の地である。日本古代の政権成立の過程において葛城の地の豪族が影響を与えていることは疑いがない。門脇禎二氏はその葛城の地に焦点をあてた研究、著作がある方だが、その言を借りると

もともと、磯長谷は葛城国の王の勢力下にあったと思われ、
それとの関係からであろうが、近江の息長系とのかかわりの
あとも認められる。
(『葛城と古代国家』門脇禎二著より)

とある。即ち磯長谷も葛城勢力の影響下にあり、葛城勢力が北方の和爾氏(奈良盆地北部)、さらには息長氏(近江)と協調関係にあり、その結果として勢力間の婚姻が行われたのではないか、という推測をしている。

ここで若干話は逸れるのだが、「宿禰」とは何かということについて門脇氏は明確な定義を設けて論を進めているのが面白い。必ずしも定説とはなっていないようなのだが、下記のような定義である。

「宿禰」というのは、前にもすこしふれたが二つの意味がある。
一つは、六八四(天武天皇一三)年に新しく定められた、いわ
ゆる八色の姓の第三位の姓で、それまでの連姓の有力氏に
与えられたものである。いま一つは、先般の埼玉県稲荷山古
墳出土鉄剣の銘文に「多加利足尼」などとあったように、ある
氏の共同祖先をいう。
(『葛城と古代国家』門脇禎二著より)

息長宿禰命、という場合は後の定義に該当し息長氏先祖の集合霊、ということになり個人名を指しているわけでなく、息長氏の先祖と葛城勢力の先祖との間に婚姻があったということを伝承として伝えていることになる。この定義は非常に分かりやすく、魅力的に感じる。

門脇氏にはもうひとつ、言葉の定義で助けて頂くこととする。古代における「国」の概念の定義である。

地域小国……「葛城国」やその対極の「倭国」はこの段階を指し、
あるいはそれを遺称的に用いられたものとみる。
地域王国……邪馬台国などはその先例とみ、より完成されたも
(=地域国家) のとしては地域の称に応じて大倭王国あるいは
ヤマト王国〔とその朝廷〕・キビ王国・イヅモ王国
などとして記す。
統一国家……いわゆる飛鳥時代から律令体制にわたり、統一
的な国家組織をととのえ、関東から九州中部まで
日本列島の大部分を支配領域とした国家段階を
指す。

これらの言葉の定義をお借りしながら、河内の「しながだに」の「おきなが」との関係と、河内の「おきなががわ」が存在する可能性について想像をめぐらせてみたい。

前章にてふれた「息長氏研究会」高居芳美氏に書面を頂いた際、河内に息長川があったとする根拠としてクイマタナガヒコ系譜、ワカヌケフタマタオウ系譜があるが、この系譜には後世からの加筆があり、現実の系譜とは異なるものであろうと指摘をされていた。

このクイマタナガヒコ系譜、ワカヌケフタマタオウ系譜とは「応神天皇と継体天皇の間の系図」である、と要約できるものだ。『古事記』の品陀和気命(ホムダワケノミコト)、即ち応神天皇の章では

またくひ俣長日子王(クイマタナガヒコオウ)の女、
息長眞若中比賣を娶して、生ませる御子、
若沼毛ニ俣王(ワカヌケフタマタオウ)

との記述がある。応神天皇の妃のひとりが「息長」をおもわせる名の母親であり、その子である若沼毛ニ俣王が継体天皇の祖先にあたるというのだが『古事記』にはその間についての記述はない。日本書紀にも同様の記述があるが、ワカヌケフタマタオウの母親の名前が違っている。一方で『上宮記』という、記紀に先んじて成立されたという書物があり、散逸しているが鎌倉時代に卜部兼方によって書かれた『釈日本紀』にはその逸文が残っている。ワカヌケフタマタオウからオオドノオオキミ、即ち継体天皇までの系譜が書かれている。これがワカヌケフタマタオウ系譜である。クイマタナガヒコ系譜は息長眞若中比賣までの系譜で、同じく『上宮記』の逸文にある。

応神天皇については「河内王朝」という地域王国の初祖とされている。そして継体天皇は近江にいた応神天皇の五代あとの子孫が、世継ぎがなくなった際に大王として迎えられたと記紀に書かれているひとである。実際はここで王朝が代わったのであり、継体天皇はいわゆる「近江王朝」のの初祖であったのではないか、という説も提起されている。

継体天皇以降は新たな王朝である、とする見地からいえばクイマタナガヒコ系譜やワカヌケフタマタオウ系譜は応神天皇と継体天皇の系図をつなぐべく後世に紡がれたものであり、例えば大阪の杭全(くまた)はクイマタナガヒコ王と縁ある地名では無いか、というような推論を成り立たすものではない、といえる。

ではなぜクイマタナガヒコ系譜やワカヌケフタマタオウ系譜は紡がれたのか。それを推測するには、記紀を編纂したひとたちの立場に思いを馳せる必要がある。

『上宮記』は編纂時期や編纂者がよく伝わっていない。その書名から厩戸皇子(聖徳太子)との関連が指摘され、もし正しければ六世紀から七世紀ごろに成立か、と推測される。『古事記』は八世紀前半に太安万侶が編纂者となり元明天皇に献上された、とされている。いずれも継体天皇の裔による統一国家治世下でのしごと、ということになる。

そして統一国家の体裁を整えだした時点で史記を編纂しようとし、地域王国、あるいは地域小国の時代の歴史を振り返ったときに捻れが発生したのではないか、系譜を操作しないと編纂の前提となる、統一国家の経営者が信奉する政治思想でもって記述できないジレンマが発生したのではないかというのが私の想像のおおまかなところである。

統一国家が信奉する政治思想というのは律令制、ということになるのだが、ここでは時に律令制において「王土王民」という時の王統をどう考えるか、である。律令制が生まれた古代中国においては王統は男系である。一方地域王国の時代まで、日本においては男系か女系かということがはっきり決まっていなかったのではないか。地域王国の時代で河内王国、あるいは近江王国が成立した、というとき女系では破綻なくつながっていたのではないか。

『息長氏論叢』のなかに『継体天皇と息長氏』と題する山尾幸久氏の講演録が収められており、そのなかで『日本書紀』の孝徳紀で言及されている「品部廃止詔」への言及がある。これがまさに男系を宣言するものである。

これ(「品部廃止詔」を指す。筆者注)は孝徳天皇がだした詔勅のよう
に『日本書紀』ではなっていますが、私の考えでは、これは孝徳天皇で
はなく、もう少しあとの天武天皇の詔勅であろうと考えています。それは
別にしまして、この詔勅は一読しただけではなかなかわからない難解な
ものでありますが、これは次のようなことをいっています。
今後、天皇の地位は男子の血統で世襲されていくのである。だから、
どの天皇も、祖先の皇族ともども、のちの時代に決して忘れられること
がない。それは自明である。天皇や皇族の存在は未来永劫にわたっ
て伝えられるのだ。
そういうことをいっています。
(『継体天皇と息長氏』より)

前述の高居氏の指摘ではこの理解から、クイマタナガヒコ系譜、ワカヌケフタマタオウ系譜をそのまま受け取れない、現在の大阪の地名に結びつけて論じることはできない、と言われている。そして「オキナガ」が河内の地名に現れるのは磯長谷であり、時期は継体天皇以降であろう、と私は読み込んでいる。

八世紀中ごろに「おきなががわ」の歌を大伴家持の前で詠んで見せた馬史国人の属する馬氏の本拠地は『続日本紀』の記述から河内国古市郡(現在の羽曳野市古市)であったと考えられる。この古市と磯長谷は竹内街道沿いに並んでいる。

ならば考えられるのは、下記のいずれかではないか。

…… 6世紀以降に磯長谷に息長氏が進出し拠点を持つようになり、本拠地である近江でうたわれた和歌が河内拠点にも伝わっていた、それを馬史国人は宴席で思い出した

…… 磯長谷近辺に流れる川、例えば磯長谷と古市の間を南北に流れている石川か、両地を結ぶ竹内街道沿いを流れる飛鳥川(石川の支流)か、梅川(同じく石川の支流)のいずれかが「おきなががわ」という別名で呼ばれていた

実際には石川は蘇我氏の系譜のなかに名前に取り込まれて登場することから、当時から「石川」と呼ばれていたと思しい。飛鳥川にしても『万葉集』の十巻にはその名で読み込まれているのであり、「河内息長川」については後者の説でも根拠に乏しいといえる。それでも、か細い可能性であったとしても、河内の南東に「おきなががわ」が流れていたという説を提示しておきたい。

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息長川ノート Copyright © 2013 by Mukunoki Yasuo. All Rights Reserved.

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