5 源氏物語

息長川が日本文学史に現れるのは万葉集の事跡のあと約二百数十年あとになる。日本で最古の長編小説、紫式部の『源氏物語』であり、舞台としてこれ以上ないといえる。

ただそれはほんの一箇所、修辞として現れたのであり、その後長く息長川という川は誰の筆によっても書かれずに長い時間が過ぎることとなる。

息長川が一瞬現れるのは『夕顔』の帖で、長編小説としての『源氏物語』の四帖目にあたる。初期の部分で、おそらく最初は連作の恋愛小説として描き始められた頃の一編である。源氏君が市井に隠れるように生きていた女性とふとしたことから知り合い、逢瀬を重ねるようになるのだが、ある日この薄幸の女性は理不尽な最期を迎え、二人の恋は終わってしまう。

息長川の和歌の引用のされ様というものがなかなか興味深い。下記は小学館刊の『新編日本古典文学全集』から引いた「原文」になる。

もの恐ろしうすごげに思ひたれば、かのさし集ひたる住まひの心
ならひならんとをかしく思す。
御車入れさせて、西の対に御座などよそふほどに、高欄に御車
ひき懸けて立ちたまへり。右近、艶なる心地して、来し方のことなど
も、人知れず思ひ出でけり。預りいみじく経営し歩く気色に、この御
ありさま知りはてぬ。
ほのぼのともの見ゆるほとに下りたまひぬめり。かりそめなれど
きよげにしつらひたり。「御供に人もさぶらはざりけり。不便なるわ
ざかな」とて、睦ましき下家司にて殿にも仕うまつる者なりければ、
参り寄りて、「さるべき人召すべきにや」など申さすれど、「ことさら
に人来まじき隠れ処求めたるなり。さらに心より外に漏らすな」と口
がためさせたまふ。御粥など急ぎまゐらせたれど、取りつぐ御まか
なひうちあはず。まだ知らぬことなるに御旅寝に、息長川と契りた
まふことよりほかのことなし。

夕顔は、とても控え目な、控え過ぎる、臆病な性格の女性として描かれている。彼女はその臆病な性格故隠れ住んでいたのだが、源氏に見い出されて逢うようになる。そしてある日、源氏は人の目が気になるということで、二人きりになれる場所として廃院に連れて行く……という下りである。引用冒頭の「もの恐ろしうすごげに思」っているのは、源氏の愛情は嬉しくも、知らない寂しい場所に連れて来られて不安と戸惑いを感じている夕顔である。

一方で源氏は夕顔の不安に気がついておらず、あんな狭いところに普段暮らしているから、こんな広い所に来て居心地が悪いのだろう、可愛いな、ぐらいにしか思っていない。

「息長川の和歌のようにいつまでも……」とと契りたもうたのも源氏が夢中になって夕顔に語りかけているものだ。

永遠の愛を誓う、という修辞において「息長川」はとても人口に膾炙した歌枕として使われていて、あまりによく使われる表現であるがゆえ、恋に浮かれた源氏を軽く揶揄する気持ちが紫式部の筆からは読み取れる。

さて、この源氏物語の下りについて三津井康純氏はその複数著作の中で「鳰鳥の於吉奈我河半絶えぬとも君に語らむ言儘きめやも」の和歌がおまじないとして平安期に流行した、という記述をされていた。どこにそのような文献や考証があるのだろうかと首を傾げつつ調べていたのだが、『歌宴の情景からみた息長川(喜連川・今川)説』(『大阪春秋』第一三二号、梅本雄三氏との共著)の脚注において根拠は実は無いとのことで訂正されていたので拍子抜けすることとなった。

三津井氏の説には全般的に「こうであったらいいな」という願望がまず最初にあり、それを結論とすべく論述を無理やり積み重ねている印象を私は持っている。この訂正の顛末からも、それを感じている。

実際には上記の通り、せいぜい「おきなががわ」の和歌がよく知られていて、余りにも正道で男をからかうのに使えるぐらいであった、ということだろうかとおもわれる。

それよりも三津井氏と梅本氏の論考で重要なのは『古今和歌六帖』に息長川の和歌が採録されていることに言及している点であろうとおもっている。私は紫式部ほどの知識であれば読み手に「万葉集の最終巻、巻二十に載っているこの歌はご存知よね?」という挑戦的な意図を隠しつつこの歌枕を挿し挟んだのだろうとおもっていたが、『古今和歌六帖』に「おきなががわ」の和歌が採録されていることを知ると見える景色が変ってくる。

この『古今和歌六帖』だが、『万葉集』やその後の勅撰歌集とはまた違った形式で私撰されているもので、現代の我々が読んでもなかなか面白い集である。

その興味深い編纂形式というのが、季節や花鳥風月、色彩などのテーマごとに、そのテーマが詠み込まれた和歌を集めているというもので、俳句の季語というような律の存在を知っていると、その萌芽を短絡にも感じてしまう。ひとつの和歌が複数のテーマを含んでいることもあるから、ひとつの歌が複数回現れたりもする。

に ほ

にほ鳥のしたやすからぬ思ひには
あたりの水もこほらさりけり

しものうへにとひかふかもの(にほイ)は風には
ひとりあるひとのいもねかねつる

にほとりのおき中かはゝたえぬとも
君にかたらふことつきめやは

鳰とりのおなしうきねをするときは
よふかきこゑをともにこそきけ

君かなもわか名もたてしいけにすむ
鳰といふ鳥のしたにかよはん

あふことのなきさによする鳰鳥の
うきにつみて物をこそおもへ

さかのうへのらう女イ
にほとりのすたくいけみつ心あらは
きみにわかこひこゝろしめさね

はるのいけのたまもにあそふ鳰鳥の
あしのいとなき恋もするかな

ひとりのみみつのほりえにすむ鳰の
そこはたえすもこひわたる哉

年ことにあゆしはしれはされた川
うやつかつけて川瀬たつねん

……

テーマに合った歌を集める、という考えは実は既に万葉集の中にも一部あることなのだが、平安期にテーマ別編纂が全面的に採用された『古今和歌六帖』が生み出され読まれたた背景には歌合の存在があったというのが間違いない理解なのであろう。

左右に分かれて詠んだ和歌の優劣を競うこの催しは、和歌の才が時に出世に影響を与えた平安期において我々が感じるほど軽々しいものではなかったらしい。無理に例えればスポーツ選手とオリンピックの関係に通づる所があるというところだろうか。歌合に出場するほどのひとたちは皆、題ごとの過去の秀歌を顧みることに需要を感じていたと想像される。

『古今和歌六帖』は『紀氏六帖』とも過去呼ばれており、これは紀貫之か彼に近縁のひとが編んだという説があったことによる。だがこの説は正しくないらしく、現在も定説は定まっていないながらおそらく源順(したごう)か兼明(かねあきら)親王、いずれかのひとが編み上げたのであろうというのが正しいのではないかと思われる。源順は延喜十一年(九一一年)、兼明親王が三年後の延喜十四年(九一四年)に生まれている。両人とも詩文においては天才と言ってよい評価を得ていたひとで、源順は『和名類聚抄』という辞典の編纂者であり、また歌合に読み手としての参加だけでなく評者も務めている。兼明親王は詩文だけでなく能筆でも知られ、漢詩にも通じているあたり『古今和歌六帖』がおそらくはその編纂方式や題を取ったであろう『白氏六帖』にも通じていたであろうと推測できる。

私などは特に源順が言葉遊びの技術にも長けていたことが面白い。『古今和歌六帖』にはところどころ、そのテーマに駄洒落でしかひっかからないような歌が収められていたりするのである。先の「にほ」の部の二首目などもそのような撰である。

『古今和歌六帖』の最初の優れた注釈者として契沖がいるが、この江戸期の摂津尼崎生まれの国学者はごく真面目な人だったらしく、そういった駄洒落撰についていちいち「何でここに収められているのか分からない」「ここに収められているのは間違いである」というような注を附しており微笑ましい。だがそういった言葉遊びすら、歌合に臨むにあたっては知っている必要があったのかもしれない。順が撰者として当て嵌まりそうにおもう所以である。

両人いずれが『古今和歌六帖』を編んだにせよ、おそらくは晩年に形にしたと思われ、紫式部がこの世に生まれたと思しい天延元年(九七九年)以降に成立したと思われる。時期的にも彼女は和歌についての素養を育てていくにあたり『古今和歌六帖』も読んでいたと想像できる。更には同時期には参考書のような扱いでもって広く読みまわされていたのではないか、という推測が成り立つ。

そう考えた時に、三津井氏の当初の説くようにではなかったにせよ、『古今和歌六帖』の三帖、「にほ」の項に採録された和歌が良く知られており、万葉集に収められている歌であることも相まって「おきなかかわ」が歌枕として認識されていたとは思って良いのではないかとは言える。あるいは同じ歌枕を詠み込んだ、失われた歌があったかもしれない、とまで空想を膨らませることまでもできる。

ただ残念ながら、そのことが息長川がいずこの地を流れていたのかの手がかりになりそうもない。

歌枕、というものが平安時代の歌人たちの間でどのような扱いを受けていたかというと、多分に古歌への追慕の中で生きていた言葉であった。つまり、こんな場所があるに違いないという表象のものだった。竜田川といえば紅葉が川面を覆う風景の象徴であろうし、近江海といえばひろびろとした水面が見渡す限り広がり水鳥が浮かび、静かに波が打ち寄せる様子の象徴であり、それを歌に詠んだとしてもその光景のスケッチという訳ではなく、詠んだひとがその場に居たとは限らない。むしろ居ないて詠んでいる場合の方が多いといえる。「おきなかかわ」といえば水鳥が潜く川の流れがイメージとして共有されていたかもしれず、一歩踏み込んで紫式部の生きた時代にはこの辺りにある、ということも意識されていたかもしれない。いずれにせよ、今となっては仮定を許してもそこまででしかない。

これも三津井氏の指摘だったと記憶しているが、「おきなががわ」の歌は『新勅撰和歌集』にも採録されている。藤原定家による勅撰集で、鎌倉時代に摂関家(藤原道家)からの下命で古今の和歌を撰したものである。藤原定家といえば『新古今和歌集』が思い起こされるが、この六人の選者による勅撰集の後、この『新勅撰和歌集』は定家による独撰として生まれた。古歌から鎌倉幕府の武士の和歌まで広く、かつバランスよく配置されているのは、定家晩年の力量と評して良いらしい。源氏物語が生まれておおよそ二百年後のことである。

鳰とりのおき中川はたえぬとも君にかたらふ事つきめやは

鳰鳥は息長き物なれはおきなか川の枕詞によめりとそ。
いきをおきといふ、いとおと五音通する也。沖中に流れ
いりし川は川は絶る事なき物なれはかくよめり。此うた
源氏夕顔の巻の引歌にも出て尤古歌也

左註において、「おき中川」は固有名詞としてでなく、沖に流れ入る川を特定せず表したものと解しているようにも取れる。中世鎌倉時代に入るまでに枕詞としての「息長川」は、その実在を絶たれたものと思われる。

それにしても定家が「源氏夕顔の引歌」と表現しているのは面白い。彼が源氏物語における「息長川」の修辞の使われ方を知らなかったはずはなく、 それでもあえて「引歌」と表現しているのは、やはり万葉集に歌われた、我々の追うテーマであるところの

にほどりの おきなががわは たえぬとも
きみにかたらむ ことつきめやも
右一首主人散位寮散位馬史国人

という和歌にだけ「おきなががわ」が登場することを示している、少なくとも定家はそう理解して書いている、というようにもとれる。そのことから「おきなががわ」は微かな存在であるながら、この一首自身は長い時代を通じて人口に膾炙し続ける力を持っていた、と読み取ることが出来るようでもある。

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息長川ノート Copyright © 2013 by Mukunoki Yasuo. All Rights Reserved.

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