6 森幸安の古地図

『万葉集』からおおよそ千年の時を経た江戸期において、唐突に「息長川」が書物の上に現れる。

それは二人の学者が見たなにものかであり、ふたりの視点を追うことでしか、その唐突さへの答えは得られないものであるように思われる。

学者のひとりは森幸安。京都の人。元禄期に京極高辻茶磨屋町に生まれ、大阪に本拠を置き、地図、地誌の作製を行った。その肩書きは地図考証家、地図製作家、そして地誌学者、となるであろうか。

彼自身は編纂した地図各々に付した奥付には単に「京都書生 森幸安」とだけ記している。彼の地図に対する態度からは、それが謙遜でもなんでもなく丁度良い自称であったのかもしれない。膨大な地図を体系だててまとめたが、あくまでも市井のいち研究者としての立場で作製した。

江戸期の地図製作者といえば伊能忠敬を思い出すが、忠敬は幸安より四十数年後に生まれた。幸安が地図や地誌の研究に本格的に取り組んだのが一七四八年(寛延元年)~一七六三年(宝暦十三年)といわれている。幸安五十歳を迎える頃からであることを考えると、家業を子供に継がせた後のことではないかと推測される。森家は画工を生業としていた可能性が指摘されており、息子が画工としてひとりだちしてから研究三昧の生活に入ったものと思われるのだ。

一方伊能忠敬もよく知られている通り家業を譲って隠居してから学問の道に入ったので測量を始めたのが一八〇〇年(寛政十二年)という。生きた時代が重なっている二人だがその活動時期にも似たところがある。

そもそも森幸安と伊能忠敬との地図に対するアプローチは違っているので、後に活動した忠敬が幸安の業績を学んでいたかどうかは良く分からない。伊能忠敬は測量と天文観測を学んだ人であり実地の観測旅行によりあの高精度の地図を世に生み出した。

一方幸安の作品はその全てが『日本志』という巨大な体系を為しており、この体系こそが幸安の地図に対する接し方そのものを表している。幸安は地誌を研究することで『日本志』という巨大な体系を為したと言える。

『日本志』の体系とは世界の中に日本があり、日本の中に各地方の地図があるというメタ視点と、過去の各時代の地図があるという四次元の視点から成っている。いまわれわれは地図についても拡大縮小表示や過去の地図を重ねて表示するなどのウェブサービスが提供されているのを知っており、実際当たり前のようにそれを使用している。しかし江戸時代中期に幸安が既にその概念でもって世のあらゆる地図を体系化しようとした、という事実には軽い驚きを覚えずにはいられない。

まだ研究の途上にある森幸安の研究結果をごく乱暴にとらえてしまうと、全体『日本志』は地誌と地図とで構成される。地図の体系のうち、日本の地図については『日本輿地図』としてまとめられている。

『日本輿地図』の体系を畿内を例にとって具体的に紹介すると、次のようになる。

まず五畿内について地図発刊時点の地図がある。各地図には共通のフォーマットでタイトルと奥付が付けられており、タイトルからどの部分の地図であるのかを読み取ることができる。即ちインデックスである。

更に地図の余白には詳細な書き込みがある。幸安はこれを「識字」と読んだが、地図に関する情報が書き込まれる。我々がメタタグという呼称で呼ぶものだと言える。

 

■皇輿地 畿内五州地図(『森幸安の描いた地図』国際日本文化研究センター/日文研叢書 29 より)

Nihonshi_KinaiGoshuChizu(2)

 

① 山城国(『森幸安の描いた地図』国際日本文化研究センター/日文研叢書 29 より)

Nihonshi_KanjoYamashironokuniChizu(2)

 

② 大和国(『森幸安の描いた地図』国際日本文化研究センター/日文研叢書 29 より)

Nihonshi_YamatonokuniChizu(2)

 

③ 河内国

Nihonyochizu_Kawachinokuni_2(2)

④ 和泉国

Nihonyochizu_Izuminokuni_1(2)

 

⑤ 摂津国

Nihonyochizu_Settsunokuni_1(2)

 

⑥ 都市図としての大阪近郊図

Nihonshi_KanjoOsakaChizu_1(2)

更には、⑥について過去の地図が付け加えられる。タイトルや識語を読めば、⑦や⑧は⑥の過去の地図であることが分かるようになっている。

⑦ 摂州大坂旧地図

Nihonshi_OsakaKyuChizu(2)

 

⑧ 摂津国難波古地図

Nihonshi_NaniwaKochizu_1(2)

 

四次元の時間を過去を上に表現すると下記のような図になる。「日本輿地図」に収録された地図には「神廟仏刹部」や「景致部」(景観図)といった区分けのものも含むので、更にそれらも含めて理解しなければならないのだが、この地図体系が「日本輿地図」であると理解して良い。

 

Explain_Nihonshi_5(2)

ここで畿内を例にとり森幸安の編み上げた『日本輿地図』について説明したのは、⑧の「摂津国難波古地図」にたどり着くためでもある。森幸安が今川について言及したのがこの地図だ。「摂津国難波古地図」には「喜連川」という川が「名所 息長川」という呼称とともに描かれている識語にはこうある。

河内川 一名息長川。延暦中二十三万余人の単功を以て成る。
今は水道異なり、また小川と為り、今は今川というなり。
(読み下しは筆者による。以降も引用は同じ)

この一文が息長川を「今川である」という説の有力な根拠のひとつとして援用されている。

さて、この識語の文章は信頼に足りる文章なのだろうか。

それには「摂津国難波古地図」の識語をつらつらと読んでみなければならない。まず地図の冒頭にはこう記されている。この地図の、日本志のなかにおける体系を説明する部分である。

嘗て世に難波の古図と云うもの有り、其の図を見るに高津故都を
今の高津の地に置き、長柄の橋を今の長柄村に渡し、今の津村町、
三津の里、木津等を大海と為し、田蓑の嶋を尼崎と為し、或いは伊
丹、池田辺に至り海と為するのこれ類。其の的所詳らかならず。故
に今古籍を考え此の難波の古地図を作る。此の余旧所有りと雖も
古説を未だ貯えざる者此の図に載せず。近世より大坂の繁栄する
を以って大河尻、江口、神崎、大物、猪飼津、桑津等の大処悉く今
村と為す。諸郷も己に廃す天王寺、住吉等の如き不易なり。堺の津
近世と相同じ。大坂は元小村なり。難波の数村一つに合し大処津と
為る。

要約すると「世には難波の古地図だ、というものがあるが現在陸地の場所が広く海として描かれていたりしている類のものでどこまで本当か定かでない。そのため古今の書物にあたってこの古地図を作成した。由来ある場所だとされているところでも古くからの文献に記載がないようなものはこの地図には掲載していない」というところで、これが大阪都市部地図の一番古いものだ、と位置づけていることが分かる。当然かもしれないが古墳時代以前の難波潟のあった、考古知識に基づく大阪の地図は幸安としては理解の埒外にあったと思われる。

続いて地図に描かれた住吉郡、百済郡、難波大郡、難波小郡の概説があり、各郡に属する場所についての説明が続くのだが、この各郡内の説明は『五畿内志』の摂津国についての記述とほぼ同じものを採用している。幸安のいう「古今籍」とは端的にいって『五畿内志』を指していたと言って良いようである。

では『五畿内志』では息長川についてはどのように書いているのだろうか。

今川 旧名河内川。河州丹北郡より流れ本郡喜連西に至る。
息長川というが古歌にあり。桑津東を経て巨麻川に会い
東成郡舎利寺村に至り平野川に入り、今水道古と頗る
異なりよりて今川という。

幸安が推敲したうえで「摂津国難波古地図」に書き込んだことが伺えるが、「今は水道異なり、また小川と為り、今は今川というなり」という論拠は『五畿内志』であると考えて良いようである。

では『五畿内志』の記述は信頼おけるものなのだろうか。

それには『五畿内志』を為したひとの業績をみていく必要がある。次章に譲るが、並河誠所である。

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