3 息長横河

『息長氏論叢』という研究雑誌がある。七巻まで、刊行されている。

「息長氏研究会」が発刊元で、近江の地で歴史を研究されている在野の方々の集まりである。

万葉集に採録された歌に現れる「おきなががわ」が河内のいずれかの川ではないか、という説を紹介してきたが、あくまでも定説は「近江の天野川がおきなががわに同定される」である。たとえば万葉集研究の専門家に「おきなががわ」について聞いたとしても、定説以外の意見は出てこないようにおもわれる。

この度とりあげている河内説のうち、三津井康純氏(と梅本雄三氏)は著書に『帰化人の研究』などがある今井啓一氏の説が唱えた説を起点としている。中九兵衛氏は大井重二郎氏の『万葉集摂河泉歌枕考』を紹介する形で論を展開、三津井氏の説に異論を提示されている。その後三津井氏も大井重二郎氏の論考を自説に援用されようとしているが、私としては今井啓一説を三津井康純氏が採用し、大井重二郎説を中九兵衛氏が発掘された、という構図が分かりやすい。

大井重二郎氏の「おきなががわ」についての指摘が書かれた『万葉集摂河泉歌枕考』は昭和十四年の刊行だった。「天皇機関説事件」が昭和十年だから、歴史学説についてまともに議論ができなくなりつつあった時代といえるかもしれない。太平洋戦争に向かって万葉集どころではなくなっていたのか、あるいは斉藤茂吉の『万葉秀歌』や『柿本人麻呂』といった著作の陰に隠れていたのか、特に反論などは見られていない。

今井啓一氏の論考『息長氏異聞』は昭和三十四年、『日本上古代史』二十五号に発表されたとのことだが、採用した論拠が近世の書物に限られたため八木毅氏に反論されて終わったとのことである。それ以降このたびにいたるまで、いわゆる「河内息長川説」や「河内息長氏の存在」は省みられずに来た、ということになるらしい。

(上記文献については現時点で孫引きであることを告白しておく。本来文献にあたったうえで書き進めたいところだが、時間の制限があり、ウェブ上では先に進める)

そこで滋賀県に「息長」というキーワードで何かしらの研究が見つけられないだろうか、と探した結果得られたのが冒頭の『息長氏論叢』だった。近江の地を本拠とした息長氏についての研究成果がテーマであるから万葉集の採録歌が出てくる場面は少ないが、第一巻で研究会会長である古野四郎氏の筆による「はじめに」には

「万葉集巻二十、四四五八」に「鳰鳥の於吉奈我河半絶えぬとも、君に語らむ言儘きめやも」の歌、
(中略、他の例も挙げて)……と息長の文字を見ることができます。こうした息長氏の軌跡を追うことも
又、必要かと考えています。

と書かれており、「息長」といえばそれは息長氏の本拠地である近江のことであるという前提が、当然のこととして提示されている。

おそらく現在でも「息長といえば近江」との前提で認識されていると考えられ、河内息長川説などは迷惑な話でしかないかもしれないとおもいながら、私は巻末に記載されている研究会メンバーの方へ連絡をとるべく封書を書いたところ、メンバーのひとり高居芳美氏より返信を頂くこととなった。

高居氏は返信のなかで「息長」という地名が近江に属することを例証して下さった。

その内容は次章述べたいとおもうが、高居氏に教えていただいたことで私が注目していた『息長氏論叢』の書き手が既に亡くなられていたことを知ったのでそれをまず書きたい。辻新太朗氏という方である。

『息長氏論叢』をひととおり目を通し、興味を持ったページはコピーを採取したのだが、一番多く控えを取ったのが辻氏の書かれたものだった。『息長氏に関する考察』は複数号に渡って執筆されたものだが、息長氏について諸説を取り上げながら反論するところは反論し、自説を展開していく。在野の史家としてこれだけの論考が問える才能があったことに敬意を覚える。

さて辻氏の論考で『カブト山をめぐる二、三の問題』という文章がある。「カブト山」は現在の北陸自動車道米原インターチェンジの近く、多和田という辺りにある山で、遊歩道が整備されいてオオムラサキの生息場所としても知られている。定説で息長川とされる天野川の北岸に位置し、息長の地にあるといってよい。この山には環状列石遺構が残されているがその由来は現在に至るまで解明されておらず、『息長氏論叢』の中にも頻繁に登場する。辻氏はこの遺構と壬申の乱の関係をテーマに書かれている。

この乱(壬申の乱のこと、筆者注)とカブト山との関連は、(六七二年)七月一日ないし
二日の玉倉部邑の戦い、そして七月七日の息長横河における両軍の数万規模の激
突が、この山の下でたたかわれたことは確実と考えられるので、東山道に沿う天野川
に接っする位置にある、カブト山に拠ってたつ軍事的位置関係は軽視されるべきでは
ない。
(『カブト山をめぐる二、三の問題』辻新太朗著、冒頭部分より)

上記の理由から、日本書紀の天渟中原瀛真人天皇(あまのぬなはらおきのまひとのすめらみこと、即ち天武天皇)の部の上巻、世に言う『壬申紀』に出てくる「玉倉部邑」、「息長横河」の場所の検討が進められている。

さて私は第一章のて「息長川」は万葉集に収められた一首にしか登場しない、と断言した。この断言が間違いであると指摘するかもしれないものが、この日本書紀に書かれた「息長横河」である。

「息長横河」は先に引用したように壬申の乱中、大海人皇子(天武天皇)配下の村国連男依(むらくにのむらじおより)率いる軍が大友皇子配下の境部連薬(さかいべのむらじくすり)率いる軍を破った合戦の地として登場する。日本書紀、しかも壬申紀の中の記述であるから良く知られている。大井重二郎氏は『万葉集摂河泉歌枕考』で触れているようで、中九兵衛氏も『於吉奈我河考』の4章「於吉奈我河をさぐる」の近江息長川についての記述で上記壬申紀の部分と

また、同じ横河と思えるものとして、天平十一年(七四〇)十二月六日、聖武天皇が恭仁都(くにのみやこ)
(京都府相楽郡加茂町瓶原に跡地)に入る前に、近江国坂田郡の「横川頓宮」に立ち寄っていることが、
『続日本紀』に記されている。

と記されているが、逆にそこまでであり、「於吉奈我」が近江を示す固有名詞でなく地勢を表す言葉であった可能性から現在の東大阪にある「意岐部」の古地名との関連を論じている。

辻新太朗氏は「息長横河」の場所を特定するために他の用例に触れて書かれている。

この「息長横河」に似た用例を『日本書紀』に見ると、大化紀二年正月一日条の
「名墾横河」、あるいは壬申紀六月二四日条の「横河」の例があり、いずれも伊賀
国名張郡の名張川あるいは名張川と黒田川(宇陀川か)との合流点付近の地を
指すものといわれている。
(中略)
「息長横河」とは、息長川(天野川)そのものを指すというよりは、むしろ息長川に
対して横さまに流入する川である、丹生川あるいは梓川との合流点付近の地を
示す地名であると判断することは合理的であろう。

この「本流に対して支流が合流する地点の地名を横河と呼ぶ」というのは通説と言ってよいようだ。

『みちのく縄文地名発掘 雄勝-秋田県雄勝町文化調査報告書』(日本地名学研究所編)には「雄勝「横川駅」考」という章があり、雄物川と支流の院内川の合流地点にある「横川」という地名について論じられている。

この地については『続日本紀』巻第十二、聖武天皇の天平九年の記述に陸奥の按察使(あぜち)である大野朝臣東人らが男勝村を征し陸奥国から出羽柵への直通道路を貫通させることへの許可を申請している下りがある。『続日本紀』には出ていないがこの際設けられた駅のひとつに「横川」があったようだ。

一方、壬申紀に記された名張の「横河」については前後で隠駅屋(なばりのうまや)と伊賀駅家を大海人皇子が焼いて人を集めようとしたことから駅を備えた行政路沿いにあったとおもわれる。

辻氏も「隠駅屋」について、さらには『延喜式』兵部省によると坂田郡(近江)に横川駅が設けられていたことについて言及されている。これらを考え合わせると「横河」が奈良時代の政治・行政上の地名のひとつのパターンであったことが推測される。

このことから天野川が天武天皇から皇子である舎人親王の生きた時代、息長川と呼ばれていた可能性はとても高いといえる。

ならば壬申紀の息長横河の記述から八十四年後に馬史国人の口から詠唱され、万葉集に採録された「おきなががわ」も近江の息長川だったというのが通説であることは不自然ではない。

近江に息長川が実在したとするならば、河内息長川を主張しようとする立場からは「息長川はひとつではなかった」という推論を立てざるを得ない気がする。先ほど大井氏、中氏の「意岐部」のように近江の息長川と馬史国人が吟じた「おきなががわ」は別のものだった、という可能性を論じるのである。

現在の東大阪市、御厨(みくりや)に意岐部(おきべ)という地名があった。現在の地名としては失われているが、小中学校の名としては使われている。また昭和初期までは行政上に村名として使われていた。中氏は紹介する。

「意岐部村(おきべむら)」は、明治二十二年(一八八九)に、御厨、新家、荒本、菱屋東新田の
四ヶ村と菱屋中新田の一部が合併、昭和十二年(一九三八)まで続いた村名で、旧村名を継承
した五大字を編成していた。はじめは河内郡若江郡、明治二十九年(一八九六)から中河内郡
に属している。

更には『延喜式』には若江郡意岐部神社が記載されている。このお社も現在は名が失われていて、現在の長田神社(東大阪市長田)か御厨天神社(東大阪市御厨)のいずれかがいまの姿ではないかと言われている。

このうち長田神社の祭神は品陀和気命(ほむだわけのみこと、応神天皇)、息長足姫命(おきながたらしひめのみこと、神功皇后、即ち応神天皇の母)、多紀理毘売命(たきりびめのみこと、大国主命の妃)が祭神であるが、神社の祭神というものは時に流行り廃りに影響を受けたりするものなので息長足姫命という祭神をあまり信頼することはできない。ただ『万葉集摂河泉歌枕考』には

神社所在地付近を意岐宮屋敷という。

とあるようで、この伝承地名が本当ならば現在感じるよりも意岐部という地名がおおきいものかもしれないという気はする。

そして

此の「於吉(おき)」は息の意に非(あら)ずして、『古事記』に見える淤岐都登理
(おきつどり、沖津鳥)の淤岐(おき)と同じく、「沖」、即ち「奥辺」を意味するもの
で、入江或は大河の海岸に注ぐ此の地方の地形状より考え出されたものと推測
する。

として、河内に地形から「沖長」という地名が、近江とは独自に存在したのではないか、と論じているのである。

ただ延喜式成立の平安中期の時点で「おきべ」はあっても「おきなが」はないということになるのであり、やはり実在がうかがわれる近江説が強いことは変わりないようにおもわれる。他に河内に残る「おきなが」はないものだろうか。

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