1 唯一の場所

息長川(おきなががわ)、という川がある。あるいは、あった。

川などというものは流れる場所や時代によって名前を変えるものだし、その流路自体が
天災や人の都合によって変わりもし、それ契機に名前が変わることもあれば川そのものが
姿を消すこともある。

今地図のどこを探しても息長川という川はない。また、俗称としても残っている
場所はないはずだ。

おきなががわ、という名前が残っている箇所は厳密には一箇所しかないのではないか、
と私は考えている。それは万葉集の中だ。

他に源氏物語にも一箇所でてくる。また、だいぶ下って江戸時代、『摂津名所図会大成』
という地誌(の草稿)と『摂津国難波古地図』にも出てくる。だが、これらはみな万葉集
の幻を映したもののようにおもえる。

万葉集は全二十巻が現在の我々に遺されているが、一度に成立したというものではなく
四期に分けて増補されてきたというのがほぼ定説となっている。その四期と編纂者と目される
人物を挙げると下記のようになっている。

一期……一巻の前半。持統天皇、柿本人麻呂

二期……一巻の後半と二巻増補。元明天皇、太安万侶

三期……三巻から十六巻増補。元正天皇、市原王、大伴家持、大伴坂上郎女

四期……十七巻から二十巻増補。大伴家持

息長川が登場するのはこのうち二十巻、大伴家持が最後に増補したであろう部分の、それも
いよいよ最後の方になる。

天平勝宝八歳丙申二月朔乙酉二十四日
戌申太上天皇太皇太后幸行於河内離宮
経信以壬子伝幸於難波宮也

三月七日於河内国伎人郷馬国人之家
宴歌三首

須美乃江能波麻末都我根乃之多婆倍弓和
我見流乎努良能久佐奈加利曽禰
(すみのえの はままつがねの したはえて
わがみるをのの くさなかりそね)
右一首兵部少輔大伴宿禰家持

爾保杼里乃於吉奈我河波半多延奴等母伎
美爾可多良武巳等都奇米也母 古新未詳
(にほどりの おきなががわは たえぬとも
きみにかたらむ ことつきめやも)
右一首主人散位寮散位馬史国人

蘆苅爾保里江許具奈流可治能於等波於保
美也比等能未奈伎久麻泥爾
(あしかりに ほりえこぐなる かぢのおとは
おほみやひとの みなきくまでに)
右一首式部少丞大伴宿禰池主読之即云
兵部大丞大原真人今城大原真人今城先日他所読歌者

天平勝宝八年に孝謙天皇と両親である聖武太上天皇、光明太上皇后が平城京から河内に行幸されたとき、
「くれのさと」の「馬国人」宅で宴を持った、その時の三首が記してある、という
のである。宴を持ったという、その主語があいまいなのだがこれはこの章でも触れる。

まず歌集の編纂者大伴家持の歌。

住之江の浜に生えている松、私が見ている、その松の根元に生える下草を刈ってしまわないで、
という歌だが、俺が狙っている娘をとらないでくれよ、と暗喩を使って歌にしているのである。

次に宴の主人である馬国人の歌なのだが、最後に「古新未詳」とあるのが議論の対象となる。
これもまた述べることになるので置いておく。

かいつぶりが泳ぐほどの「おきなががわ」の流れが絶えることがあっても、あなたとの語らいは
つきることがありません

という恋歌を家持の歌に反応して披露している。

すると大伴池主が「よそで大原今城が詠んだ歌ですがね、こんな歌がありますよ」と更に反応する。

あれあれ、蘆を刈るのに堀江で船を漕いでいるのかね、と大宮人みんなに聞こえるくらいのかじの音だ、
というのだが船の上で本当は何をやっているのかしら……というちょっとふざけた感じの歌である。

大伴池主という人物は伝記にあいまいさがある人物なのだが、家持とそんなに近くない親戚だったと
いわれている。家持とは仲が良かったらしく歌の遣り取りが残っている。
そしてこんな歌を持ち出すのでわかるように、ちょっとくだけた人柄だったとおもわれる。この三首を
家持が万葉集に収めたのは、この池主の
悪ふざけ、そして宴の盛り上がっている雰囲気を遺したかったということのような気がする。

我々にとっては、この宴の歌が残されているのは上記家持の思い以上のものがある。それはこの孝謙天皇の行幸が
『続日本紀』に記録されており、宴があったことが公式記録に裏づけされているということによる。
『続日本紀』は先行する『日本書紀』に比べて記録としての正確性を評価されているのだ。

天平勝宝八年(西暦七五六)
二月二十四日 孝謙天皇が平城宮から難波に行幸され、智識寺行宮に到着される
同じ日聖武太上天皇と光明太上皇后は河内離宮に到着される(万葉集)
二十五日 孝謙天皇が行宮より智識・山下・大里・三宅・家原・鳥坂の六寺に行幸される
二十六日 孝謙天皇が行宮より内舎人(うどねり)を前日の六寺に遣わし、誦経させ、お布施を与えた
二十八日 大雨の日だったが、孝謙天皇は智識寺行宮から難波宮に行幸される
聖武太上天皇、光明太上皇后の難波宮に行幸される(万葉集)
三月  一日 聖武太上天皇が堀江のほとりに行幸される
二日 孝謙天皇は河内・摂津の田租免除の詔を発された
五日 孝謙天皇は摂津の諸寺に使いを出して誦経させ、お布施を与えた
七日 河内国伎人郷の馬史国人邸に大伴家持、大友池主が訪れ宴があった(万葉集)
十四日 孝謙天皇が恩赦の詔を発する。その中で聖武太上天皇の体調不良について言及される。
十五日 孝謙天皇は渋河路を通り難波宮から智識寺行宮に入られた
十七日 孝謙天皇は平城京に戻られた
六月  四日 聖武太上天皇平城京にて崩御

くどくなるが主語と場所を明記した。出典を示していない記述が『続日本紀』のものだ。

孝謙天皇が参った智識寺は大和川北岸にあったとされる、現在の柏原市、近鉄安堂駅に近い。その南に行宮(あんぐう)
があった。一時的な宮殿施設のことをいう。智識寺を含む六寺はこの付近を南北に通る東高野街道沿いに
並んでいたらしい。

一方孝謙帝の両親である聖武太上天皇、光明太上皇后が最初に宿泊したという河内離宮というのは
智識寺よりももう少し大和川をさかのぼった、近鉄河内堅下駅近くの青谷遺跡がそれである、とされている。

聖武天皇が崩御の直前河内に行幸された時のことになる。途中河内、摂津とそれぞれで誦経がなされている。
我々の常識とは違ってしまうことだが、この行幸は「治療」のためだったかもしれないと伺い知れる。
病気平癒の祈祷は当時の認識からすると治療行為だったから、仏教への帰依が深い聖武天皇のことだから同じ
治療目的ではなかったかと知れるのだ。

聖武帝が仏教への帰依が深かったというのは別の側面から見れば特定の宗教にのめりこみ易いような性格を
持っていたともいえる。平城京に落ち着くまで遷都を繰り返しおそらくは民を疲弊させたはずだがそれに気づかずに
東大寺盧舎那仏を鋳造し、それがまた民を疲弊させたであろうことからひとつの考えに執着し易い性格だったのではないか
となんとはなく感じる。それが「誦経が治療」と同じ当時の常識に沿っていたとしても、である。

それはさておき、ここでは三月七日の宴について出席者を万葉集にある通りにしている。

中氏は『於吉奈我河考』で主に大井重次郎氏の『万葉集摂河泉歌枕考』を引きその説に取捨選択を加えられているが、
大井氏はこの日程について「聖武天皇と光明皇后が河内行幸の際に馬史国人邸車籠をとめられたのであろう。すると
日程が合わないので、二月二十七日の誤記であろう」としている。

高木彬光氏が作中で神津恭介をして言わしめているように、資料はそのまま読むべきであろうと私は考える。
複数の資料により間違いが指摘されるような場合は別だろうが、今回の場合『万葉集』と『続日本紀』しかない。
中氏はどちらの可能性も考えられるが、やはり記述通り三月七日に歌人たちだけで馬史国人邸を訪ねたとするのが
自然だ、とされている。

三津井氏は『万葉集に詠まれた息長川はわがまちの今川だった』中篇では日については特に何も触れられず、
「聖武太上天皇、光明太上皇后、孝謙天皇の御三方が伎人郷を訪れた」ということを先に引用した万葉集の記述から
読み取られている。中氏はこれに対しまだ位の低い臣下宅に天皇が赴くことは不自然であること(『於吉奈我河考』)、
天皇の御前で男女の交わりを歌うことは不自然であること(『於吉奈我河考Ⅱ』)を揚げて反論されている。

そのためか中氏の著述のあとに梅本雄三氏と三津井氏の共著として書かれた『万葉集と源氏物語をつなく息長川(今川)』
では臨席がなかったという結論に変えられている。ただ、万葉集の記述がどうしても「三陛下が伎人郷を訪れた」と読めるらしく
「二月二十七日に非公式な三陛下の伎人郷訪問があった」という前提で「三月七日に公式訪問のため大伴家持と大伴池主ら歌人が
伎人郷を訪問し、馬史国人邸で宴が催された」という展開になっている。時代伝奇小説としてそのようなストーリーを構築
されることは構わないような気がするが、論文としては取るに足らない。

万葉集の記述からすると大伴家持は孝謙天皇でなく聖武太上天皇、光明太上皇后に随身していたように思われる。
いったん難波宮まで随身し、三月一日の堀江のほとりへも随身し、そのあとに馬史国人邸に歌人だけが
行ったと書いてあるのだ。

平城宮への孝謙天皇の帰路が「渋河路」であったと書かれており、渋河路という古道が当時の平野川に沿った道だった
ところを知ると、馬史国人邸も平野川沿いにあるのが自然に思われ、中氏の平野川説が一番自然には思われる。
ただここでは深入りせずにおこうかとおもう。まだ近江・天野川説については登場していないのだから。
まずここでは、息長川が存在したといえるたったひとつの場所が万葉集の中あることを書いておきたい。

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息長川ノート Copyright © 2013 by Mukunoki Yasuo. All Rights Reserved.

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