7 並河誠所の敗北

『五畿内志』は江戸期に編纂された幕撰地誌の通称で、正式には『日本輿地通志』の『畿内部』という名称になる。「幕撰」という表現には若干の議論の余地があるようだが、「学者が編纂したものに幕府が採用する」といった形式をとった幕撰の地誌ととらえて差し支えない。

関祖衡及び並河誠所という儒学者が中心となって編纂プロジェクトはスタートしたが、関が亡くなったため並河誠所がプロジェクトを引き継ぎ、畿内部を完成させた。当初は日本全国を対象としてスタートしたプロジェクトだったのだが、そこまでは届かなかった。畿内部の編纂は並河誠所の手によって為されたと言い切ってよい。並河は「なみかわ」と訓んでいる資料と「なびか」と訓んでいる資料があり、どちらが正しいのか、後者はただの大阪訛りなのか、私にも分からない。

その後幕府は各藩に調査をさせて提出を命じることはしたが、幕撰の地誌というものはこれ以降出なかった。地域が限定されているとは言え『五畿内志』にはそれなりの箔がついていたと考えて良い。

その幕撰地誌のなか、巻五十「摂津之二 住吉郡」の山川についての記述のなかに以下の記載があることは前章でも触れた。

今川 旧名河内川。河州丹北郡より流れ本郡喜連西に至る。
息長川というが古歌にあり。桑津東を経て巨麻川に会い
東成郡舎利寺村に至り平野川に入り、今水道古と頗る
異なりよりて今川という。

この記述が森幸安の「難波古地図」にほぼそのまま取り込まれたことについてもやはり前章で触れた。

息長川を「今川である」という説は『五畿内志』と「難波古地図」を有力な根拠のひとつとして取り扱っている。これに対して平野川説を唱える中九兵衛氏は河内川が今の今川である、という認識に重大な瑕疵を認めて反論をされている。

そもそも確認できる限り『五畿内志』以前の文献において全く確認できない、今川を息長川に結びつける言説は信頼に足るものなのだろうか。

その問いに答えを得るのに、並河誠所という学者の業績に目を向けざるを得ない。

例えば「伝王仁墓」というものがある。

枚方市にあるものだが、この場所を同定したのは並河誠所である。同じ枚方にある和田寺の僧道俊が江戸前期に記した書物の内容を知り、現地調査の上で王仁墓だというものを同定し領主にこれを祀ることを進言したという。

道俊の著書を根拠にした辺りは伊藤仁斎の門下で古義学を学んだことが如実に伺えるが、古義学の立場が「根本的な文献にあたって論を立てる」というものであるとすれば、並河誠所の論考は不充分なものだと言わなければならない。

まず、道俊の著作は「根本的な文献」とは到底評価できるものではない。だが並河誠所は道俊の著作の記述の根拠について検討をした形跡が残っていない。

文献についての検討が不充分である以上、以降の論考は砂上の楼閣であると言わざるを得ないが、更に言うと道俊の著書に記された内容から王仁博士の墓を特定する間にも論理の飛躍がある。厳しく言えば論理と呼べるものですらなく、墓かどうか判然としない石を墓であると断定している。

後世の歴史学から評価すれば、王仁博士をひとりの実在の人物として評価して良いか、ということすら定かではない。

これらのことは枚方市も分かっているようで、付近に設置された説明板には全て「伝」王仁墓と記す事を忘れていない。

また例えば「鶯陵」の碑、というものがある。

奈良の若草山の山頂には古墳があり、鶯塚古墳という。奈良で幼少時代を過ごした私のような人間にはとても馴染み深い場所だが、ここに江戸期に東大寺の僧康訓が建立した「鶯陵」碑が今もある。実はこの碑の建立を働きかけたのが並河誠所であり、彼はこの稜を仁徳帝の后である磐之媛の陵墓であるとして碑の建立を康訓に勧めている。

現在この同定についてはほとんど顧みられてはおらず、磐之媛陵も諸説あるながら鶯塚古墳を候補にあげることはされていない。

さらに例えば「摂津国式内社標石」の建立、というものがある。

『五畿内志』編纂の作業のひとつとして並河誠所は式内社の場所の比定を行なっている。既に高齢であった並河は門弟から調査隊を編成し現地調査も行ったうえで考証を行なっているのだが、比定にとどまらず、比定した場所に標石を建立することをしている。その数二十社。

標石を建立するまで、社は別の名で呼ばれていたものが大半で、氏子たちも式内社などという概念を知らずにお祀りしてきた。氏子たちからしてみれば、ある日突然幕府の威光を背負った知らない男たちがやってきて「お前たちの崇めている神社の本当はこういう名前の謂れのある神社なのだぞ」と宣言し、かつ後日有無を言わせずぞろぞろと人がやってきて碑を建てていった、という出来事であったろう。

この辺りの氏子たちの困惑は受け入れた土地の古文書に遺っているようで、そこから伺うにこのような会話がひそひそ話が交わされたものと思われる。

「うちの鎮守が違う名前や、いうのはどういうこっちゃ」
「分からんけどあの人、将軍様の意向やいうて威張っとったぞ」
「困ったことやが逆ろうたらめんどうやで」
「あの石に菅廣房が建てた、いうて書いてあったがどこのだれや」
「知らんわ」

既に老齢であった並河誠所も現地に足を運んだ訳ではなく、代わりの人間を遣わして調査をし、標石を建てていた。「菅廣房」とは標石建立の費用二十両を出資した山口屋伊兵衛という人物の事だという。姿を現さない人物の指図で、縁もゆかりもない人物の名を鎮守に刻まれて憤懣を押し殺した氏子も居たのではないか。

式内社の同定が正しいものであったのならばその際の困惑や憤懣も報われようものだが、実際は伝王仁墓や鶯塚と同様に必ずしも厳密な検証を経ずに同定している。

というのも並河誠所の目的は「式内社を由緒通りに認識され、敬意をもって遇される」ということであったようで、式内社について世に知らしめすという目的が果たされれば厳密な検証については意に介していなかったのではないかと思われる節があるのだ。あるいは老齢でもあり、時間が無いという焦りの気持ちがあったのかもしれない。

現在並河誠所の事績を研究者がどう評価しているかというと、上記のような記述の誤りについては指摘あるものの地誌のひとつのパターンを形にしたことや人の記憶から喪われていたことがらを遺そうとした点については一定の評価を与えるべきではないか、というようなところであるように思われる。だが、やはり幕撰地誌として書いた内容に誤りが多いという点については厳しく非難されてしかるべきなのではないかと私は考える。

先に述べたように並河誠所は復古的な考えを持っており、その考えの源は師である伊藤仁斎の学問、古義学に求められる。原典にその根拠を求め、かつ実際に現地をみて検証し、顕かにした事柄を世に広く現そう、という考えである。伊藤仁斎にとっての「原典」とは「論語」や「孟子」などの古典のことだが、並河誠所はその考えの型を地誌に適用した、と言えようか。

伊藤仁斎の思想は江戸期の学問において主流の地位を占めていた朱子学へのアンチ・テーゼとして生まれたものと言える。朱子学という学派は、南宋に於いて華夷の別を論じて自らの正統を証することがひとつの大きな動機となって生み出されていると考えていい。その正統性の議論を組み上げるなかで原典にのみ拠るのではなく、他の典拠も活用し形而上的な思惟を繰り広げた。時を経て幕藩体制の日本と場所を変えて朱子学は幕府公認の立場を得た。それゆえに時にその形而上学が時に空虚な弁舌に堕す結果を生み、それに対して伊藤仁斎の古義学においては原典に立ち戻ること、また実際の経験に即した考え方を採ることとなった。

並河誠所にとって復古思想の重要テーマのひとつである式内社の検証においては『延喜式』が原典である、ということになる。だが、その原典と江戸期の「いま」を結びつけるにおいてしばしば論理の飛躍があるのでは、師の教えを正しく継いだとは言い難いのではないか。

もちろん、並河誠所にとって「忘れられている式内社の存在を改めて世に示す」ということが目的であったのならば、その式内社が実際どこであったかという詳細な同定は二の次であった、という擁護の言葉はあるのかもしれない。

しかし、現実には式内社は並河誠所が望んだように再認識され、尊重されたかというと疑問がある。実際に式内社に比定された神社の氏子たちはそれを受け入れたが、受け入れた理由は尊王の意思があったというよりは、式内社という箔に伴う利益が転がり込んできた、というものだったと思しい。前述の通り氏子たちが憤懣を押し殺せた裏には(話きいとったら得やがな)という思いがあったのではないかと推測される。

並河誠所の杜撰を受けて氏子達が蠢いた様のひとつの証左かもしれない話を最後にしておこう。

『平野川』という小説がある。平野の四条村という在の旧家の跡取りが主人公である。

旧家には四条村の八幡神社こそ式内社横野神社であると伝わっているが、大地村の印地の宮が横野神社を称している。それが歴史の改竄であると主人公が訴えるのだが、様々な誹謗中傷に合う……という筋になっている。そしてここでも、横野神社を印地の宮に比定したのが並河誠所なのである。

これを読んだ時(恐らくは自伝的な作品なのだろう)と感じ、手紙にて著者の岡田収義氏に問い合わせたところ、小説の形は取っているが団体名などは実際のものであり、まぎれもなく実際に自分に起こったことを書いている、とのお答えを頂いた。並河誠所が横野神社の場所を同定した、という点も資料に残されている史実をそのまま書かれているという。

岡田氏の主張だけを以て事の正否を語ることは今の私には出来ないのだが、少なくとも並河誠所が式内社を顕彰する以前から平野近辺においては式内社、というものの意味が氏子である農民達に理解されていたこと、更には式内社という名前は実利を伴う称号として認識されていたことは分かる。印地の宮、というのは元々神社ではなく、むかしむかし四条村、大地村、田島村三村の農民がわが鎮守が式内社であると争った場所だという。

そして岡田氏は四条村の歴史を訴え続けたところ様々な誹謗中傷を受けた、と『平野川』の中で怨嗟を隠さぬ筆致で述べている。繰り返すが私はことの正否には敢えて立ち入らない。ただ、平野において郷土の歴史に対する建設的な議論が成り立たないまま今に至っていることに並河誠所の敗北を感じるのみである。

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